「庄内地方」カテゴリーアーカイブ

野田遺跡・下中瀬遺跡(11月27日~11月29日)


今週は天候にも恵まれ、井戸枠の隅柱や横木などを取り上げました。約1,000年前のものですが、取り上げてもしっかり形を保持していました。


井戸枠材の取り上げと共に、重機により調査区の埋戻し作業も行いました。最終週の鳥海山は中腹までもう真っ白です。


調査最終日に、最後に取り上げた大型の井戸枠材や発掘器材などをトラックに積んで調査が終わりました。半年間、炎天下の日も雨、雪の日も働いてくださった地元作業員の皆さん、ありがとうございました。


同じく調査最終日には、事業主体の国土交通省酒田河川国道事務所の担当者の方に埋戻し状況を見ていただき、現地引き渡しも行いました。今後は、上山市のセンターに戻り、出土品の洗浄や注記、復元、図面作成をして、両遺跡の実態をより明らかにしていきたいと思います。


野田遺跡・下中瀬遺跡(11月20日~11月24日)


今週は調査区の微地形を探るため、阿子島功山形大学名誉教授を調査指導でお呼びし、遺跡の基本層序(地層)などを検証しました。その結果、井戸跡や包含層から火山灰が認められ、当時の遺跡の立地や古環境などが分かりました。


井戸枠内の埋土の中から、白色粘土層が発見されました。青森県の十和田火山から噴出した火山灰土(西暦915年か)と考えられます。


今週は井戸跡の井戸枠材も取り上げました。写真は縦板を外し、隅柱と横木がほぞ穴で組まれた状態です。今から1,100年前のものと考えると、調査をしていても大変感慨深いものがあります。


野田遺跡・下中瀬遺跡(11月13日~11月17日)


野田遺跡では、測量のために空中写真撮影を行いました。調査現場の奥に見える鳥海山はもう雪景色です。


井戸跡の井戸枠材の取り上げを行いました。掘方が狭小なため、掘方を拡張して掘り下げを行いました。


打込み杭などを半截したところ、地面に対して斜めに杭が入っていました。今後取り上げて人為的な加工があるか確認します。


野田遺跡・下中瀬遺跡(11月5日~11月10日)


11月5日(日)に、下中瀬遺跡と野田遺跡の調査説明会を現地で行いました。数多く出土した当時の祭祀具である斎串(いぐし)や、当時の文字が書いてある墨書土器などを展示しました。


天候が心配されましたが当日は晴れ、野田遺跡の現場に立って説明をすることができました。説明会には、地元の方を中心に約60名が参加してくださり、約1,200年前の建物跡や井戸跡を見学しました。


説明会の次の日には、小型のヘリコプターを飛ばして野田遺跡の空中写真測量を行いました。特に建物跡や井戸跡のある遺構集中部を中心に測量しました。


野田遺跡・下中瀬遺跡(10月30日~11月2日)


野田遺跡のSB1掘立柱建物跡です。今週は建物柱穴の完掘(柱穴の柱痕や埋め土を完全に掘り上げること)を行いました。


SB1掘立柱建物跡の柱穴の完掘状況です。柱穴中央部にはアタリ(柱根が存在していた部分)が残るものもありました。


今週はSE101井戸跡に近接するSK102土坑の完掘も行いました。この土坑からは斎串(いぐし)や火きり臼が出土しました。


野田遺跡・下中瀬遺跡(10月23日~10月27日)


野田遺跡の掘立柱建物跡です。先週の答えは、この写真の黄色の線と白色の線上の柱穴で構成された建物になります。黄色線の建物は、3×3間で、主軸がほぼ南北を向きます。白色線の建物は、2×3間で西側に1間拡張されたようで、主軸がやや西側に傾きます。白色線の建物の柱穴には柱痕が残るものが多く、黄色線の建物より新しいことから建替えが行われたものとみられます。


野田遺跡の調査風景です。今週は天気の良い日が続き、先週付け替え工事が終了した農道の下の調査も行いました。農道の下からは、平安時代(約1,150年前)の土器の底に、墨で字が書いてある墨書土器が2点出土しました(下の写真)。さて、何と書いてあるのでしょうか?


農道の下から出土した墨書土器です。2文字あるようです。墨書土器の文字には、人名や地名(所有者や所属)、吉祥文字(おめでたい文字)などが書いてある場合が多くあります。


2つ目の墨書土器です。少し字がくずしてあるかもしれません。当時は文字を知っているのは役人などがほとんどで、一般の集落では記号として認識されて書かれる場合もあったようです。

 

 


野田遺跡・下中瀬遺跡(10月16日~10月20日)


野田遺跡のSE101井戸跡の掘り下げ状況(南東から)です。井戸枠が狭いため、掘方も含めて掘り下げています。鳥海山からの湧水が豊富で、常に水が湧いてきます。


野田遺跡の調査区北端の2棟の掘立柱建物跡(南から)です。2×3間ほどの建物が2棟向きを変えて重複しています。どの柱穴が建物を構成するか分かるでしょうか?答えは来週のHPでお伝えします。


地元の高瀬小学校の児童が野田遺跡の見学に来てくれました。もしかしたらみんなの先祖の村かもしれないよ、とお話ししたところ、興味深く井戸跡や出土品を見学していました。


野田遺跡・下中瀬遺跡(10月10日~10月13日)


野田遺跡のSE101井戸跡の掘方(ほりかた)を掘り下げているところです。(井戸跡の井戸枠を設置した外側の部分を掘方[ほりかた]と言います。井戸は水が出る深さまで大きく掘って、その後井戸枠を設置し、その外側の掘方に土を埋めて井戸枠を固定したようです。)


野田遺跡の調査区北端の掘立柱建物群です。(調査区北端の中央部は調査区の中でも標高がやや高い地区で、掘立柱建物跡などの柱穴が発見されました。掘立柱建物跡は2×3間の大きさで、埋土が褐灰色の粘土であることが特徴的です。写真手前に丸い柱穴が直線で並んでいます。)


野田遺跡の調査区北端東側の溝跡と土坑群です。(調査区北端の標高が高い部分には掘立柱建物群などの柱穴群が集中しますが、その東側には柱穴群を区切るように溝跡が南北に走り、建物柱穴などは希薄になります[写真左]。更にその東側には直径約1m前後の土坑群が複数確認され[写真右]、大きな集落構成がうかがえます。)


野田遺跡・下中瀬遺跡(10月2日~10月6日)


野田遺跡のSE101井戸跡の土層記録作業の様子です。縦板の井戸枠内が狭いため、掘り方(井戸枠を設置するために掘った穴の部分)も掘って井戸の作り方を記録しています。


SE101井戸跡の掘り方から、底部に墨で文字が書かれた土器(墨書土器)が出土しました。文字は略字で墨が薄いところもあり、現時点でははっきりと判読できませんが、今後センターにある機械で赤外線をあてると明確になるかもしれません。


秋田県埋蔵文化財センターの遺跡廻りバスツアーの方々が野田遺跡に来跡されました。同じ出羽国でありながら、庄内地方と秋田県では古代の住居形態が異なっており、庄内地方では掘立柱建物跡主体であるのに対して秋田県では竪穴住居跡と掘立柱建物跡が併存することなどを紹介しました。


野田遺跡・下中瀬遺跡(9月25日~9月29日)


野田遺跡のSK2土坑の土層断面です。SK2土坑からは、斎串(いぐし)がまとまって出土しました。覆土から出土した土器の形から、年代は8世紀後半頃のものと考えられます。


SK2土坑の斎串(いぐし)出土状況です。斎串は、長さ約20cmの細長い板の先端が三角形に加工されたもので、当時のお祭りなどに使われたと考えられています。遊佐町は鳥海山の湧水が豊富なため、普通は腐って残りにくい木製品も多く見つかります。


北区南端部の建物跡の精査状況です。黄色いリボンを付けたピンポールが立つ柱穴が建物を構成するもので、一部柱根が残るものもあります。調査区南半部の建物跡はいずれも2×3間ほどで、やや小規模です。